外野手 | 左投左打
生年月日 | 1922年12月15日 |
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没年 | 1979年 (享年56歳) |
身長 | 173cm |
体重 | 70kg |
出身地 | 台湾 |
経歴 | 高雄商 - 明大 - セネタース・東急・急映・東急46年~52年 - 西鉄52年(途中移籍)~59年 |
指導経歴 | 東映68年(一軍監督) |
選手紹介 | 大下弘(おおしたひろし)は、高雄商から明大を経て、1945年にセネタースに入団。1年目からいきなり20本塁打を放ちリーグを代表する打者となると、47年シーズンから青色のバットを使用し、「青バットの大下」として人気を集めた。その後も活躍していたが、チームの合併等の騒動から、球団と金銭面でのトラブルがあり一時は大下が失踪するなど大騒動となった。52年の開幕直後にようやく深見安博とのトレードで西鉄へ移籍し、騒動が落ち着くと、大下は西鉄でも中心打者として活躍し、西鉄黄金時代を築いた。59年に現役を引退。その後、68年に東映の監督に就任するも「サインなし、罰金なし、門限なし」の「三無主義」でチームは低迷。主砲の張本勲と話し合いの際にナイフで右腕を切り覚悟を示したものの8月には休養となってしまった。張本は後に大下を「純粋無垢な人。監督にしてはいけなかった人だった」と述べている。79年に脳卒中のため逝去。 |